コンクールの軌跡

A Locus of All Japan Chorus Contest


1980年(昭和55年)

 【課題曲】 乾杯の歌(Mendelssohn)
 【自由曲】 Zpevna duma(L.Janácek)
 会場 : 名古屋市民会館
 全国大会参加 : 35名
 成績 : 優良賞 

 創立9年目にしてのコンクール初出場は、「名古屋で全国大会があるから」という外的要因がきっかけであったようだ。これは言い換えれば、最初から全国大会へいくことを前提とした選択であったということであり、しかも「最北の地」富山での中部大会にもかかわらず、台風をついて車数台で移動するなど、他の団体からはちょっと理解しがたいような、いかにもジョワイエ流である
 しかし、本当に勝ち進んでしまった全国大会では、一転して現実の壁に突き当たることになった。その後作られたコンクール反省文集は、機関紙のなかった当時としては異例の24ページに及ぶ力作であり、全国のトップレベルのコーラスを聞いた衝撃や、ジョワイエの現状を認識させられたショックなどが、生々しく伝わってくる。
 ちなみに35名という人数は、全国大会参加団体中、最小であった。


1981年(昭和56年)

 【課題曲】 インスブルックよさようなら(H.Isaac)
 【自由曲】 Isten csodája(Kodály)
 会場 : 福岡サンパレス
 全国大会参加 : 35名
 成績 : 優良賞 

 古いメンバーにとっては忘れることのできない”因縁の大会”。ジョワイエ初の外遊地が福岡というのは、いかにも取り合わせが悪かった。本番前日ぐらいはおとなしく過ごすのが普通の合唱団の感覚だろうが、そんなことはまったく意に介さないのがジョワイエ。練習後、多数のメンバーが中洲へと繰り出し、中には特殊浴場のお世話になるものまで現れる始末。翌日の状況はいうまでもなくボロボロ。パートの音がどうしても溶け合わず、非常手段としてテナーもバスも入り混じった並びでステージに。・・・結果は惨憺たるものであった。
 その後、本番前夜の行動をめぐって団内が紛糾し、一時退団者が出るなど険悪なムードに陥った。ジョワイエ30年の歴史の中でも最大の危機といえる事件であったが、その中から起こった団内改造運動は、機関紙の定期発行、700運動など、現在にまで通じるエネルギーを生み出す源となっている。


1982年(昭和57年)

 【課題曲】 しろい日の姿(清水 脩)
 【自由曲】 Graduale...
「Requiem」より(J.Ockeghem)
 中部大会参加 : 38名
 成績 : 銀賞(中部大会) 

 中部大会の金沢へは観光バスで行った。往きの車中、成人向けビデオ鑑賞で士気向上を図る。それが凶と出たか肝心のコンクールは銀賞に終わり、半ばやけくそ気味の帰路、愛知県合唱連盟の女子大生理事が同乗しているにもかかわらず、結局ビデオの続きを楽しんだ。
 コンクールの反省会の模様は機関紙15号に掲載されているが、中部で落選したという結果に感情的になることなく、自分たちの欠点を冷静に分析した結果が大半を占める。この中から、翌年の声研発表会の開催、さらにその翌年の教会演奏会、オケゲムの全曲録音へと進む道筋が生まれてゆくのである。一方、一定の成果を得たコンクールは、その後2年間の休息期間に入ることとなった。


1985年(昭和60年)

 【課題曲】 秋の歌(南 弘明)
 【自由曲】 Osudu neujdes
        Láska opravdivá(L.Janácek)
 会場 : 長野県県民会館
 全国大会参加 : 46名
 成績 :
金賞(シード) 

 5月の名フィル「アルト・ラプソディ」と11月のマーラー「千人の交響曲」という、まさに2大イベントを控えたこの年にコンクール復帰というのは、どう考えても無理やりな計画である。実際にマーラーとの並行練習は予想以上の大変さで、とにかくコンクールのほうは「参加することに意義あり」のオリンピック精神で、勝敗は二の次と言うのが偽らざる心境だったようだ。
 しかし2年の準備期間の中で、3度の声研発表会、教会演奏会、オケゲム全曲録音を体験した団員一人一人の力は着実にアップしていた。その上で、あえてマーラーと同時進行という状況でコンクールに挑むことで、音楽への取り組み方の真摯さとともに精神的なたくましさも培われていった。下地はすっかり整っていたのである。
 合唱コンクールの歴史の中、おそらく一般の部において、指揮者も含めて無名の合唱団がこれほど急激に台頭した例は他にないのではないだろうか(高校の部では往々にしてそういうことが起こる)。結果だけ見ればいかにもシンデレラ・ストーリー的な成功譚というイメージがある。しかしその真相は、前途の過去三回のコンクールの屈辱から生まれたエネルギーが導いた、十分必然性を有する結果であったといえるのではないか。


1986年(昭和61年)

 【課題曲】 Pomorane(A.Dvorák)
 【自由曲】 第2ヴォカリーズ...
「風の馬」より(武満 徹)
 会場 : 愛媛県県民文化会館メインホール
 全国大会参加 : 53名
 成績 :
金賞(シード) 

 課題曲にチェコ語が登場したという事実が凄い。これが前年のジョワイエ効果であることはまず間違いない。そしてこの年取り上げた武満は、またもや翌年の課題曲に影響を与えることとなるのである(単なる偶然ではない、という根拠は何もありませんが・・・)。
 ちなみにこの年のヒットは、ブレザーを忘れて結婚式場の貸衣装(派手)でステージに立った、某ベースのM氏でありましょう。


1987年(昭和62年)

 【課題曲】 ひとつの朝(平吉毅州)
 【自由曲】 芝生(武満 徹)
 会場 : 昭和女子大学人見記念講堂
 全国大会参加 : 60名
 成績 :
金賞(シード) 

 11月1日の演奏会には、1が3つ→3つめの金賞、という願いが込められていたとか。それにしても、コンクールの3週間前に演奏会を開く合唱団なんて、他にはちょっとないのではないか。一見不利な状況に見えても、それをプラスに転化して結果を出せるのが、ジョワイエならではの強みであろう。・・・この年の「芝生」の演奏は、ジョワイエコンクール史上、最高の完成度を誇る。
 ところで、県大会を客席で聞いていた筆者は、ジョワイエと「ひとつの朝」の組み合わせに、言いようのない不気味さを感じた。


1988年(昭和63年)

 【課題曲】 薔薇よ(三善 晃)
 【自由曲】 ふるさと(三善 晃)
 会場 : 新潟県民会館
 全国大会参加 : 70名
 成績 :
金賞(シード) 

 演奏会、そして武満への挑戦が最高の結果に終わり、明けて昭和63年初頭から、次期演奏会及び20周年演奏会に向けてのプロジェクト「クール・ジョワイエ5ヵ年計画」がスタートした。その最初の年のコンクールに、一見順序が逆の三善晃を持ってきたのは、前年の演奏会での消化不良を満たすとともに、コンクールに取り上げることで委嘱への布石とする意味も含めた選択であろう。それにしても「ふるさと」とは、思い切った選曲をしたものである(同じ三善でも、他に無難な選択肢はあったのだが)。実際、支部大会での演奏はひどい出来。新潟での本番前のリハーサルで初めていい音が鳴り、その勢いのままステージに上がって一挙に爆発。まさに優良賞と紙一重の差の金賞であった。
 結果論だが、もし「路標の歌」や「王子」を選んでいた場合、このような爆発的な演奏を実現し得たかどうか。無難な選曲で”勝ちにいく”事をせず、あくまでも”本当に歌いたい曲をやる”ことにこだわるジョワイエのコンクール精神が、完成度は今一つでも説得力で聞き出に迫る(三善先生をして「金字塔」と言わしめた)演奏を可能にしたのだと思う。


1989年(平成元年)

 【課題曲】 Pater noster(F.Liszt)
 【自由曲】 Rabhazának fia
        Nemzeti dal(Kodály)
 会場 : 福岡サンパレス
 全国大会参加 : 73名
 成績 : 銀賞

 福岡大会でのコダーイ、奇しくも8年前の再現となったこの年のコンクールは、前回と同様”因縁の大会”となった。5年目にして金賞から陥落。
 武満、三善と続いた間は、どちらかというと技術的な難しさへの挑戦という色合いが強かったが、この年のコダーイは精神面、すなわちハンガリー・ナショナリズムを追求するという一点において、大きな壁にぶち当たった。いかんせん”血の違い”というべきか、日本人のわれわれには、歴史的背景も含めてマジャール人のイデオロギーを、自分自身の実感として受け入れるのに限界がある、ということを痛感させられる結果となった。
 もうひとつ、この年の問題点に課題曲の選択がある。公募入選作(伴剛一氏の「はる」)の音楽性を高く評価しながら技術的難度から避け、無難なリストを選んだ。この、前年度と正反対の消極姿勢が、結果的に金賞陥落の遠因となったような気がしてならない。


1990年(平成2年)

 【課題曲】 第2ヴォカリーズ(武満 徹)
 【自由曲】 Miserere mei, Deus(Josquin des Prés)
 会場 : 北海道厚生年金会館
 全国大会参加 : 63名
 成績 : 銅賞

 三本柱すべてに取り組んだ第7回演奏会のプログラムからコンクールに選ばれたのは、最も不向きと思われる(演奏会でも最も不評を買った)ジョスカン・デ・プレであった。この選択、古い団員にとっては、オケゲムで敗れて以来8年越しの「カウンターテナーで全国大会へ」という夢であったわけだが、新しい団員の中には「何でわざわざこの曲を・・・」という思いに駆られた人も多かったはず。そんな中で唯一の意思統一は、賞はどうでもいい、全国の審査員である三善先生の前で最高の演奏がしたい、という思いであった。
 今にして思えば、クーラやバルトークで”それなりの銀”をもらうよりも、ジョワイエなりのアイデンティティを示した結果の”納得の銅”のほうが、ずっと意義があったのだと思える。そして何よりも、「何のために歌うのか?」切々と問いかける三善先生の講評が、ジョワイエにとって、ずしりと重みのある北海道みやげであった。


1991年(平成3年)

 【課題曲】 天(多田武彦)
 【自由曲】 王孫不帰(三善 晃)
 会場 : 岡山シンフォニーホール
 全国大会参加 : 68名
 成績 : 銀賞

 王孫不帰は難曲といわれるが、過去2年間外国曲に明け暮れたジョワイエにとって、久々に100%感性を共有できる世界に戻ってきた喜びは大きかったと思う。筆者自身、コダーイからのコンクール参加であるが、この大会で初めて”完全燃焼”できたという実感を持った。それだけの手応えがある演奏であったと思う。成績のほうはすでに興味の対象外であったが、実際に出た結果に関しては、「自分たちが銀賞なのは納得できるが、○○○が金賞を取ったのはどう考えてもおかしい」など、審査への疑問が続出した。

(以上、「クール・ジョワイエ20年史」より)


1993年(平成5年)

 【課題曲】 黄金の魚(三善晃)
 【自由曲】 いのちのうた(三善晃)
 会場 : 岐阜市民会館大ホール
 成績 : 銀賞(中部大会)


1995年(平成7年)

 【課題曲】 Gloria(K-E.Gustafsson)
 【自由曲】 くろき翼ひろげ降りたつものたち...
「いくさ三題」より(戸島美喜夫)
 会場 : 香川県県民ホール
 全国大会参加 : 60名
 成績 : 銀賞


1997年(平成9年)

 【課題曲】 海景色(高田三郎)
 【自由曲】 芝生(武満 徹)
 会場 : すみだトリフォニーホール
 全国大会参加 : 55名
 成績 :
金賞 


1998年(平成10年)

 【課題曲】 ふるさとの(池辺晋一郎)
 【自由曲】 Canticum Canticorum...
「Three Motets from the Song of Songs」より(I.Moody)
 会場 : ハーモニーホールふくい
 中部大会参加 : 60名
 成績 : 銀賞(中部大会)


2012年(平成24年)

 【課題曲】 松の針(西村 朗)
 【自由曲】 悲歌が生まれるまで(西村 朗)

 会場 : 刈谷市総合文化センター「アイリス」
 県大会参加 : 35名
 成績 : 銀賞(県大会)


2013年(平成25年)

 【課題曲】 五月の貴公子(清水 脩)
 【自由曲】 ゆうぐれ(西村 朗)
 会場 : 刈谷市総合文化センター「アイリス」
 県大会参加 : 34名
 成績 : 金賞(県大会)


2014年(平成26年)

 【課題曲】 うたを うたう とき(信長 貴富)
 【自由曲】 永訣の朝から「無声慟哭」(西村 朗)
 会場 : 羽島市文化センター スカイホール
 中部大会参加 : 34名
 成績 : 金賞(中部大会)
全国出場はならず


2015年(平成27年)

 【課題曲】 またある夜に(北川 昇)
 【自由曲】 永訣の朝から「永訣の朝」(西村 朗)
 会場 : 長崎ブリックホール
 全国大会参加 : 41名
 成績 : 銀賞(全国大会)


コンクール再挑戦4年目にして全国大会出場となった。久しぶりの全国大会は演奏時刻(午前中の本番)と緊張からか思った通りの演奏には今ひとつ。ただ持てる力を出し切っての「納得の銀」。金賞団体の技術と壁の高さを感じる大会となった。


2016年(平成28年)

 【課題曲】 Fölszálott a páva(孔雀が飛んだ:Kodály Zoltán)
 【自由曲】 男声合唱のためのコンポジションⅢから「艪」「引き念仏」(間宮 芳生)
 会場 : 三重県総合文化センター
 中部大会参加 : 41名
 成績 : 銅賞(中部大会)



2018年(平成30年)

 【課題曲】 秋の夜の会話(高嶋みどり)
 【自由曲】 伊東静雄の詩による交声曲「曠野の歌」~男声合唱とピアノのために~から
       「夜の葦」「我がひとに與ふる哀歌」(若林 千春)
 会場 : 札幌コンサートホールKitara
 全国大会参加 : 36名
 成績 : 銅賞(全国大会)


3年ぶりに全国大会出場。全国での委嘱作品の演奏は23年ぶりであり、若林作品を聴いていただいたことは指揮者・団員共に大きな達成感を残した。銅賞であったが審査員の本山先生より「オヤジの星」と評され、更に演奏に磨きをかけることを誓うジョワイエであった。



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